藤沢市立高砂小学校の歴史 1

 藤沢市立高砂小学校は1964(昭和39)年4月1日に藤沢市で15番目の小学校として開校しました。今年で開校50周年に当たります。諸般の事情から今年度は特別な行事を行いません。しかし節目の50年ですので、高砂小学校の歴史についてこの場を借りてお知らせしたいと思います。

高砂小学校の前史(砂丘 演習地)

 高砂小学校は辻堂海岸の砂丘があったところに建てられました。ご存知の通り、砂丘には植物は育ちにくいです。ですから、田や畑には向いていません。そこで考えられたのが、源頼朝の時代から昭和初期まで、演習地として使われました。

 源頼朝の時代のこの辺りは、八的が原(やつまとがはら)砂地に的が八つではなく、八は末広がりでたくさんの意味だったのでしょう。源頼朝や家来達が鎌倉からこの辺りに来て、軍事演習をやっていたものと思われます。

 隣に八松小学校がありますが、以前この辺りは八松が原(やつまつがはら)と言われていました。これは八的が原の的が松に転じたのでしょう。確かに松もたくさんあり、松の方がきれいですね。

 江戸時代末期、幕末の頃には茅ヶ崎に向かって鉄砲道と言うのができました。これは韮山の代官であった江川太郎左右衛門が、韮山の反射炉で作った大砲や鉄砲をこの鉄砲道を通って、この辺りに来て大砲や鉄砲の試射をしていました。

 明治20年には海軍砲術学校演習場として、昭和20年の終戦まで演習場の役目を果たしました。

 昭和21年にはアメリカ海軍接収ヘリコプター基地として利用されました。

 昭和27年 藤沢市議会に「同地開放促進委員会」が設置されました。

 昭和30年 アメリカ軍オネストジョンの発射基地化の計画が起こりました。

 昭和32年 自衛隊「訓練地化」の運動が起こりました。

 昭和34年 接収解除(県・市による強力な運動により)されました。市議会に「同地開発対策特別委員会」を設置しました。

 昭和35年 大蔵省が22万坪の土地分譲計画を提示しました。日本住宅公団5万坪 藤沢市4万坪 茅ヶ崎市1万坪 大蔵省用地(国家公務員住宅となったもの)1万坪 相模学園3万坪 県立公園6万坪

 昭和33年 上記に先立ち藤沢市は小学校用地として(後の高砂小学校用地と白浜養護学校の用地分)を払い下げられました。

 以上が高砂小学校の前史と言って良いでしょう。

学校所在地

 藤沢市辻堂7054-3

 藤沢市辻堂西海岸1丁目3番1号(昭和43年 町名変更による)

 校名

 藤沢市立高砂(たかすな)小学校

 昭和39年4月1日の学校設置を目途に、これに先立ち市教委は広く市民一般、教員等より校名を募集し、学校敷地近くの地名高砂(たかすな)をとって校名と決定する。

 学校敷地の地名は弥平田(せいえた)であるが、むしろ浜見山小学校とか校地より富士の雄姿が松越しに眺望されることから富士見小学校等の応募名が数多く見られた。しかし浜見山は地名的に辻堂小学校区であり、また富士見小はすでに42年に設置予定の長後地区の校名に富士見台小学校と予定されているところからこれも紛れやすい名のため採用されなかったようである。なお、辻堂団地に先立ち茅ヶ崎市中島以南の日本住宅公団の団地名が浜見平団地であることも校名選定にあたり配慮されたようである。

 言うところの高砂(たかすな)の位置は自治会名にある西海岸たかすな睦会のある辺り一帯から湘南新道を越え、南の団地10.11の街区辺りの砂丘地帯を指すもののようである。いずれにせよ戦後その高い砂丘は平坦にされ湘南新道工事や辻堂団地工事でその姿を一変してしまった。因みに西海岸・東海岸・富士見ヶ丘・南海岸等の通称の町名は地名とは別のものである。

校歌

 昭和42年1月 当時の本校教頭 津田辰雄氏が作詞した。

 昭和42年2月 本校の保護者 有海喜巳夫氏(作曲家NETテレビのプロデューサー)が作曲した。

 昭和42年3月25日 卒業式で合唱することで発表に変えた。


学校創立前の学区地図が数枚出てきたので載せます。



開校当時の高砂小学校近辺の様子 広い砂丘だった事が伺えます。