藤沢を知る「中將姫」

藤沢市の北西部御所見の用田字中条(あざちゅうじょう)には、中將姫(ちゅうじょうひめ)がかつてここに住んだことがあるという伝承が残されていて、姫を祀(まつ)る小さな祠(ほこら)が建てられ、現在でも、姫の命日と伝えられる3月の14日には、この地区の人々が集まり、姫を偲んでのお祭りを行っている。

中將姫とは

奈良県の当麻寺(たいまじ)に古くから伝わる伝説上の人物で、当麻曼荼羅(まんだら)の発願(ほつがん)者と伝えられる高貴な女性。寺に伝わる縁起(えんぎ)によれば、姫は、奈良時代の横佩(よこはぎ)の大臣藤原豊成の娘で、17歳の時、称讃浄土教(しょうさんじょうどきょう)千巻を当麻寺に納め、天平宝字7(763)年6月15日に尼となって、この世で生身の阿弥陀如来を拝みたいと、7日間祈願をこめていた。すると、20日の夜、不思議な尼が現れ、「阿弥陀如来をこの世で拝みたいなら蓮の茎百駄を集めよ」と言った。このことを淳仁天皇がお聞きになり、近江・河内・大和の三国から蓮の茎を集めさせた。不思議な尼は、これを井戸に浸して、色糸を引き出した。23日の夜には、もう一人の尼が現れ、この尼を助けて一日中かかって、縦横とも一丈五尺(約4.5m)の大曼荼羅を織り上げたと伝えられる。

鎌倉時代に当麻寺の縁起として成立したこの物語は、室町時代以降浄土信仰の流行とともに、綴織当麻曼荼羅図(つづれおりたいままんだらず)に代表される中將姫の物語として成立する。

縁起が形成される過程では、名前は示されなかったが、後世、次第に中將姫という呼称が定着した。それに伴い様々に翻案(ほんあん)した物語が生まれ、その中に継子(ままこ)物語の要素が大きく投影され、混沌とした伝承から、一貫した物語へと変化していった。

この物語は、寺での説教にも盛んに用いられ、また、近世に入ると様々に脚色され、御伽草子(おとぎぞうし)・謡曲・浄瑠璃・説教節などにも広く取り入れられて、人気を博した。

伝承を伝える文献によって、話の内容は様々であるが阿弥陀如来と観音菩薩が比丘尼(びくに)になって現れ、姫を助けて曼荼羅を織る部分はどれにも共通している。

近世には、中將姫の伝説は各地に根を下ろし、継母の追っ手を逃れて住んでいた所とか、姫の墓・屋敷跡・化粧井戸・姫の織った曼荼羅、等と伝える伝承が、広く各地に残されている。

『中將姫御本地』慶安4(1651)年よりの伝承の要約

姫は、3歳の時に実母に死に別れ、7歳の時に迎えた継母にいじめられる。美貌の姫は、13歳の時、帝に入内を勧められるが、それを聞いた継母が姫を憎み、姫が男と密通していると夫の豊成に讒言(ざんげん)する。

怒った豊成は、姫を雲雀山(ひばりやま)に連れ出して斬らせようとするが、それを命じられた武士が情けの厚い人で、彼女をかくまい山中で大切に育てる。

後に、狩りをしてそこに至った豊成が彼女に再会し、妻の言葉が虚言であったことを知り、姫を連れ帰る。

帝は、姫を入内させようとしたが、彼女は世の無常を感じて出家の志をたて、剃髪して当麻寺に入り、法如(ほうにょ)比丘尼と名乗った。

この世で生身の阿弥陀如来を拝みたいという法如の願いを聞き、阿弥陀仏と観音菩薩が尼僧の姿で現れ、彼女を助けて蓮の糸で曼荼羅を織り上げた。

歓喜した法如は、心に仏を念じ、『称讃浄土経』千巻の写経に明け暮れ、宝亀6(775)年諸仏の来迎を受けて極楽往生をした。

用田の中条に伝わる伝承

いつの頃か中將姫が中条に居られたことがあり、姫は見つかるのを恐れて、お面をかぶっていた。

そのお面は、集落のお寺である寿昌寺(じゅしょうじ)に預けてあったが、住職がうなされるので、用田の寒川神社に納めたが盗まれてしまい現存しない。

姫が馬に乗って散歩したという所には、『馬場』の地名が残り、かつては、姫のものだという五輪塔もあったとの言い伝えが残されている。用田中条の伝承は、わずかこれだけである。

神奈川県下に於ける中將姫伝承

『新編相模風土記稿』によれば、次の所に中將姫に関わる伝承が残されている。以下は、愛川町の八菅山(はすげさん)と伊勢原市の日向薬師(ひなたやくし)、及び秦野市の落幡(おちはた)を結ぶ伝承である。「その昔、中將姫が織り上げたという大きくて立派な幡が、津久井の方から飛んできて、八菅の北の坂(幡の坂)へ落ち、更に舞い上がってこの家(雲台院…字宮村の中央部。地名は、幡)の庭に落ちてきた。行者(八菅山は、修験の道場)たちが総出で祈りあげると、幡はまた天空へ舞い上がり、鶴巻の落幡に落ちた。土地の人々はあまりにも立派な幡なので、相談の結果、日向薬師へ寄進に及んだ」と伝えられる。

『新編相模風土記稿』八菅山の項には、「山中に堂庭幡、幡之坂、以上二所、往昔幡降臨の地と云」とあり、日向薬師、薬師堂の什宝(じゅうほう)の項の中に、「幡一流 縁起曰、神亀二年幡天よりして降る云々、」とあり、同じく曼荼羅の項には、「糸を以て、名號(めいごう)及梵寺(ぼんじ)を多く縫たり、中將姫自から縫ふ所と云」と書かれている。

また、落幡村の項には、「往古、善波太郎当所にて幡曼荼羅を射落せしより、地名起れりと云」とある。

八菅山・日向薬師に伝わる伝承は、当麻寺が浄土・真言両宗の寺で、当麻修験の本山であり、真言宗系の「本山修験」に属する八菅・日向の修験者が持ち込んだものと考えられる。

その他、藤沢の遊行寺の宝物の中にも、中將姫縫仏(ぬいぼとけ)と伝える阿弥陀如来迎図があり、箱表には金泥で『中將姫繍佛』と書かれ、40世遊行上人が泉州の堺で賦算(ふさん)の折り寄進された者と伝えられている。

以上が県下に於ける中將姫に関する伝承等であるが、これらは、中將姫作りという幡や曼荼羅についての伝承で、中將姫その人に関するものではない。中將姫が住んでいたという伝承は、用田意外には県下に見当たらないようである。

中將姫の伝承がなぜここに?

八菅・日向に関係する中將姫の伝承は、両寺が別当であった本山派の修験者によって持ち込まれたものであると考えられる。(当麻寺も本山派の当麻修験の寺であった)しかし、用田周辺には本山派の修験の寺ばかりであるので、八菅・日向関係の修験者が伝えたものとは思えない。ここで八菅・日向関係の糸は、切れてしまいそうである。

また、慶長年間に伊豆から来て用田を開き、中条に大きな屋敷を持ち、寿昌寺を建立(こんりゅう)した伊東孫右衛門は、深く観音様を信仰していたと伝えられるが、浄土信仰や阿弥陀信仰のことは伝えられていない。その上、寿昌寺は、建立以来曹洞宗であり、浄土・真言とは関係がない。

従っていつの頃か(多分中將姫の伝承が広まる江戸時代)に、地名が同じであると言う理由から、女性のための信仰の対象として、姫を祀ることを始めたのではないかと考えざるを得ない。また、地区の言い伝えとして、初めの地名は中將と書いたが難しいので、何時の頃からか中条と改めたとも言われている。

全国の調査をした訳ではないので、断言はできないがもしかすると、ここが中將姫伝承の東端かもしれない。

地名の由来を説明する伝説は古来多いが、伝説があって地名が成立している場合もあれば、地名が元で、その字(あざ)を説明するために伝説が創作される場合もある。地名が生まれたのと、それが文字になって世にでたのとは、その間に大分の時間の開きがあったことが多い。その上伝承は、点で動くことがある。受け止める側に受け入れる素地があれば、遠く離れた所にも伝えられることは、よく見られることである。

この付近の地名、遠藤と遠藤武者盛遠(もりとう)・葛原(くずはら)と葛原(かつらはら)親王に関する由来も同じ様なことであるかもしれない。いずれにしても、伝承として長く伝えられ、それを受け継ぐ土地の人々が住んでいることについて、史実はともかくこの伝承を大切に後世に伝えていきたいものである。

*この文章を書くにあたり、中將姫のお祭りを主催されている寿昌寺住職平沢信雄氏及び長谷川セン様には、いろいろとご教示を頂きましたことを御礼申し上げます。

初出『ふじさわ教育』第122号