藤沢を知る「大庭城」

相模野台地の南端、引地川の右岸の台地の上に大庭城址の旧跡が残され、県南部における唯一の中世城郭址として旧地形が保存されたまま公園となっている。
城址にひっそりと立つ大庭城蹟の碑文には、

此地大庭景親ノ居城ト云フ、後上杉定正修メテ、居城セシガ、永正九年子朝良ノ時、北条早雲ニ政略サレ、是ヨリ北条氏ノ持城トナッタ。廃城ノ年代未詳空塹ノ蹟等、当代城郭ノ制ヲ見ルニ足ルモノガアル。
昭和七年九月 神奈川県

と刻まれている。

この城は、かつて平安時代、この付近を領有した大庭氏が築いたものと伝えられ、太田道灌(どうかん)が修築し、15世紀末から16世紀初頭には、道灌の主たる扇谷上杉定正・朝良の父子が相継いで居城したが、永正9(1512)年北条早雲の攻略するところとなり、廃城したものと言われる。この城を北条軍が攻撃し、この付近が戦場になったという記録はないが、城址の右端にある舟地蔵には大庭城にからんで、次のような伝説が伝えられている。

舟地蔵の伝説

『図説 ふじさわの歴史』より

北条軍がこの城を攻撃した際、城の前面と左右に広がる田のあたりは一面の沼地であった。攻略しかねた北条軍の武将達は、軍議を重ねたが、いたずらに対陣の日が過ぎていった。

ある日、城の対岸の稲荷(小字名)でボタ餅を売っていた老婆に北条方の武将の一人がどうしたらいいものかと相談したところ、「わけはありません。堤を切れば水は干上がります」と堰(せき)の場所まで簡単に教えてくれた。

喜んだ武将は、大事がもれるのを恐れ、老婆を斬り殺し、その夜のうちに堰を壊したので、満々と城の周囲に湛(たた)えられていた水は、すっかり引いてしまった。

北条勢の正面からの総攻撃により、さしもの大庭城も落城してしまった。哀れな老婆の死を悼んだ土地の人々が城跡のそばに地蔵様を建てて祀(まつ)ったのが、舟地蔵である。地蔵様は、左手に宝珠をもっているが、土地の人々は、これは宝珠ではなくボタ餅だと言っている。

また、堰のあったと言われる現在の柏山稲荷の付近は、大庭城の搦手(からめて)※で、一旦有事の際には堰を閉じれば大庭の耕地は一面の湖と化し、大庭城をして難攻不落の名城とする使命を有した要害で、重臣の吉田将監(しょうげん)に守らせたと言われ、ショキヤシキ(将監屋敷)の地名が残されている。ほかに、大庭城の南、小糸川を隔てた台地には、「築山(つきやま)」という地名が残され、城をせめあぐねた北条勢が、大庭城に近付くために築いた山であると言われる。

また、老婆がボタ餅を売っていた場所は、大庭城址の対岸にある「だんごくび」というところであるという。

※城の裏門

伝説の検討

『水のしらべ』より

1. 時代的にみて

…老婆がボタ餅を売ったような飴・菓子の辻売りは、江戸時代以降の街商風俗であり、室町時代にはこのような風習はなかった。また、岩舟地蔵は江戸中期に岩舟山高将寺(こう しょうじ)〔栃木県岩船町〕の強力な布教により関東一円に広まった信仰であり、大庭城下の舟地蔵は造立年代を欠いているが、長後永明寺の岩舟地蔵は、享保4(1720)年。下土棚善然寺のものは、享保5年の銘を持っている。県下に散在する岩舟地蔵の年銘は、1720年前後の6年間に集中している。以上の事から、この伝説の発生は、享保年間以降と考えられるが、それはそれとして舟に乗る独特のお姿の石仏にまつわるユニークな伝説であり、今後大切に伝えていきたい伝説である。

2. 伝説を再現する

…地形は、現在とほぼ同じ状況を考え、堰を閉じてから城の付近まで水を満たすにはどの位の時間が必要か?おおざっぱな推論を進めてみた。藤沢バイパスの北側に堰を設け、水が城の崖下まで達するまで水没させると、現地形で、海抜10mの等高線まで水没させたことと同じ状況になる。これにより引地川沿いには、北方約1km。小糸川沿いには、500m上流まで水没する。かなりラフな推定ではあるが、これにより北方台地以外からの大庭城への攻撃は、困難になるであろう。

引地川は、大和市の上草柳(かみそうやぎ)に端を発し、総延長約17kmの二級河川で、途中、蓼(たで)川・一色川・小糸川と合流し鵠沼海岸で相模湾に注ぐ。

現在の流水量は、様々な引地川水系報告書により計算すると大庭付近では、年平均で約1.67立方メートル/secである。

『相模風土記稿』などによれば、引地川の頃には“水量豊にして”という記述も見られることから、当時の流水量を現在の1.5倍である2.5立方メートル/secと仮定する。10mの等高線まで水没させると、その面積およそ1平方キロメートルであり、平均の水深を1.5mとすると、必要な約1,500,000立方メートルとなる。

この条件で、堰を閉じれば、約7日間で満水となる。これならば敵の攻撃が近いことを察知してから堰を閉じても、時間的には十分な余裕があるであろう。

3. 伝説の発生の理由を考える

…ボタ餅売りの老婆のことや、舟地蔵信仰の時代など、伝説と歴史的事実との違いがあり、大庭城も攻撃を受けた記録がみつかっていないので、伝説の発生は北条早雲の時代ではなく、江戸中期以降に作られたものと思われるが、生まれた理由を推測してみたい。

縄文中期頃には、現在の国道1号線付近に河口を持ち相模湾に注いでいた引地川は、その後の海退に伴う砂浜の広がりにより発達した砂丘に出口を阻まれ、台地と丘に挟まれた狭所を流れるようになった。その上、相模野台地南端が隆起するという地盤運動の影響を受け、川の両岸に広がる低地は湿地帯で、堤防にさえぎられない川の流れが、蛇行をくりかえしながら不規則に流れていたに違いない。つい最近まで、川の両岸の水田は腰までつかるようなドブ田であった。

そのため大雨、長雨の度に川縁の田畑は冠水し、大庭城址の崖下とその両側の引地・小糸の両河川に沿って、一大湖水の様相を呈した。近年でも、昭和41年・51年・56年の引地川の大氾濫の折りにこのな様子が見られた。

中世の城である大庭城は、空壕と土塁をめぐらせた山城であるのに、『城』という言葉から受ける堀を巡らせた近世の城のイメージと、昔から度々繰り返されるあたかも堀を巡らせたような洪水時の風景とを重ね合わせ、史実にはない大庭城の攻防や、ボタ餅売りの老婆を登場させ伝説が生まれてきたものではないだろうか?

初出『ふじさわ教育』第120号