伝説を伝える石仏
藤沢を知る「伝説を伝える石仏」
路傍に置かれた変哲も無い石造物にも伝承や伝説を持っているものがたくさんあるが、ほとんどの人々は、それを知ることが無く、通り過ぎていくことが多い。
今回は、市内にある石造物に伝わる伝承や伝説の内、わが身を犠牲にして人々を苦悩から救おうとした人にかかわる伝説を紹介してみたい。
人柱になって堤防を守った侍〔瞽女渕(ごぜがふち)の土手番様〕
西俣野花応院の前の道を東に入り、広々とした田圃と畑の風景が開けた所、工場の塀と水路にはさまれた場所に、「瞽女渕」の碑が建てられていて、その横に下部の基壇に水難除と書かれた頭部の欠けた石仏が立っている。
この石仏を付近の人々は「土手番様」と呼んでいる。これには、次のような伝承が伝えられている。
かたわらにある瞽女渕之碑文には、
往古ヨリ一小淵アリ、偶々(たまたま)延宝年間一人ノ瞽女溺死シ茲(ここ)ニ始メテ瞽女淵ト称ス。其後溺死スル者数人為メニ深淵ナルカ、有志屡々(しばしば)是ヲ埋メ堅堤ヲ築クト雖(いえど)モ一朝洪水ニ会スルヤ堤塘決壊シテ忍(すなわ)チ淵トナシ 亦田圃ニ氾濫ス。
弘化四年一浪士此厄除カント遺書シテ犠牲トナル、依テ村人其霊ヲ祭リ土堤番ト崇敬ス、明治四十二年藤沢町六会村俣野村総合耕地整理施行ノ結果該渕ノ旧態ヲ滅スルニ至ル茲ニ於テ有志ト相謀リ碑石ヲ建立シテ殉難者ノ霊ヲ追福スルト共ニ永ク之カ記念トス 大正元年十二月十四日建之
と記されている。
昔は、この付近の境川はよく大水が出て堤防が切れたため、この辺の百姓は、水で難儀をしていた。延宝年間(1673~80)には、この付近で歌を歌い門付けをしていた盲目の旅芸人(瞽女)が堤防が切れた為に出来た池にはまり命を落とした。それ以後この場所は瞽女渕と呼ばれる様になった。
弘化4年(1847)の或る日一人の浪人がどこからか流れて来て瞽女淵のあたりにたたずんでいた。目の前には、切れた堤防からあふれた水で池のように変わった田畑の風景が広がり、野良で働く百姓の姿もなかった。浪々の長旅で体力も衰え、将来への希望も失っていた浪人は、やがてどこかの地で行き倒れる身、それならここで水害に苦しむ農民の為に命を投げ出そうと決心した。
次の日の朝、村人は堤の上に置かれた大小の刀と紙片を発見し大騒ぎとなった。淵の水溜りからは浪人の遺体が見つかった。紙片は書置きで、そこには「この村を水害から救う為にわが身を投げ出し、人柱となってこの土手を守りたい。」との遺志が書かれていた。
村人は、この侍を御所ヶ谷の閻魔(えんま)堂(もとの法王院十王堂跡)の墓地に手厚く葬った。戒名は「天翁録守信士」現在でも緑の木々に囲まれた墓地に眠っている。一方この侍の遺志に沿うために村人は水難除けの石仏を建立し、土手番様と呼んだ。始めは金沢橋のたもとに建てられていたが耕地整理等の関係で現在のところに移された。
昔は、12月14日が土手番様のお祭りの日で参詣人も多く、堤防の草が千切れて無くなる位の人出で賑わったと言う。
昔、城、堤、橋などの難工事の際、神の心を和らげ完成の為の犠牲として、生きた人を水底や土中に埋めることが行われた。これを人柱(ひとばしら)と言う。
県内でも愛川町半原や座間市南原に伝承があるが、昔からよく知られているものに横浜市中区おさんの宮と横須賀市久里浜平作川の話がある。
吉田勘兵衛が、寛文7年(1667)海を埋め立てて吉田新田を開いた時、波除けの堤を築いたが風雨の度ごとに壊れ工事がはかどらなかった。この家の下女「おさん」は長い間お世話になった主家の為、人柱に立ち無事に工事が完成した。おさんの徳に深く感謝した吉田家では、新田鎮護の神として日枝神社に祀った。現在でもこの神社は『おさんの宮』の名で有名である。
久里浜の平作川周辺も、万治3年(1660)から7年の年月をかけて砂村新左衛門により新田開発がなされたが、難工事のため旅人を人柱にしたとか、貧しい村人の娘をお金で買って人柱にしたとの伝説が伝えられている。
生きながら入定(にゅうじょう)して咳の神様になった坊さん〔打戻の慶蔵院(けいそいん)さま〕
御所見の打戻、榎戸1331番地に、称業山薬応院大法寺という浄土宗のお寺がある。昔、大法寺に慶蔵坊と名乗り、村人からはたいへん慕われたお坊さんが住職を勤めていた。この坊さんはお酒が大変好きであった。
喘息(ぜんそく)を患っていたが、或る日激しい咳が出て止まらず苦しくて食べ物も喉を通らず、大好きなお酒ばかり飲んで過ごしていた。
打戻は,穏やかな村であったが、この地に百日咳(子どもに多い伝染病で、気管支が炎症を起こし、発作的な特有な咳が長く続く病気)が流行しはじめ、赤子や幼児があちこちで倒れ、子どもを持つ母親達は途方にくれる有様であった。
この様子を見た慶蔵坊は、
『わしは年もとり、それに喘息持ちの身、そう長くはないだろう。この身を埋めて、悪霊を払ってやろうじゃないか。また、わしは喘息で苦しんだ、死んだら咳の神様になって咳に苦しむ人々を助けてやりたい。』
と村人に申し出た。
この申出が慶蔵坊のかたい信念であることを知った村人達は、三日三晩相談を重ねたあげく、北方の村境に土地を求めた。場所が決まると、寺からその場所までの道に敷き詰める菰(こも)を村人は丹精(たんせい)こめて織り上げた。
村人は、慶蔵坊の入定を総出で見送り入った穴には節を抜いた竹が立てられ息抜きとした。竹筒を通して伝わる鐘の音と読経の声が聞こえる間は、和尚の遺言にしたがって竹筒から坊さんの大好きな酒を流しつづけた。
このことがあってから、さすがの悪疫も下火になり喜んだ村人は、「慶蔵院様」と崇(あが)め、その地に石仏を建立した。
昭和の初め頃までは、風邪や百日咳が流行すると、竹筒に入れたお酒を供えお参りする慶蔵院様と呼ばれる石仏人が絶えなかったと伝えられている。
慶蔵院の入定した場所は、県道藤沢・厚木線の西菖蒲沢バス停の近くで、コンクリートブロックに囲まれた一画に、元禄4年12月の銘を持つ蓮弁光背型の石仏が一基さびしく置かれている。また、大法寺境内にも慶蔵坊和尚の石碑がある。
入定とは、本来は禅定に入ることで悟りを開く意味であるが,日本では異なった意味に用いられ、禅定も山林修行を意味し、修行者の死を入定と呼んだ。
これは特別な意味を持ち死後も永遠の生命をもって生きていると言う信仰を生んだ。入定信仰では、肉体もそのまま残ると信じられ、これを即身仏といった。入定によって肉体を残し、同時に永遠の生命をもって衆生済度しようとしたものである。
県内でも、伊勢原には山岳修行者の入定塚と伝えられるものが残っている。
(初出『ふじさわ教育』第128号)