藤沢を知る「小栗判官・照手姫」

遊行寺境内の北東にあり、もと遊行寺の塔頭(たっちゅう)〔本寺の境内にある小寺〕だった長生院(ちょうしょういん)は、古くは閻魔堂(えんまどう)と呼ばれていたが、照手姫により中興され長生院と改称したと伝えられ、今日まで続いている。

江戸時代には、小栗判官伝説の流布により有名となり、当時の東海道道中案内記の藤沢宿には、必ずと言って良い程長生院の「小栗判官・照手姫」伝説が紹介されている。藤沢を通る人々にとって小栗判官・照手姫の史跡は、見過ごすことの出来ないものであった。

藤沢の長生院に伝わる小栗判官・照手姫の伝説

『昔、常陸(ひたち)国真壁郡の小栗(現茨城県真壁郡協和町)に、小栗満重という大名が住んでいた。応永(1394から1427)の頃、当時関東管領として関東を治めていた足利持氏に謀反の疑いをかけられ、鎌倉より討手を向けられついに攻め落とされてしまった。

満重は、わずかに10人の家来を連れて三河国(現愛知県)をさして落ちのびていった。その途中で相模国の郷士横山大膳の家人に誘われ、しばらく大膳の館にとどまった。とどまるうちに、満重は妓女の照手姫と親しくなり、夫婦になる約束をした。

照手姫の父は、北面の武士(上皇や法皇の御所をまもる武士)であったが姫は早くから父母に死に別れ、訳あって大膳に仕えていた。

横山は、実は旅人を殺し金品を奪う盗賊であった。満重たちが何も知らずに立ち寄ったので、いい獲物がかかったと喜んだが、10人の強そうな家来が一緒では手が出せなかった。

その頃、横山の家には人から盗んだ人食い馬と言われる荒馬の「鬼鹿毛(おにかげ)」が飼われていた。横山は満重をこの馬に乗せ噛み殺させようとたくらんだ。しかし、満重は馬術の達人であったので、この荒馬をなんなく乗りこなし碁盤乗りなどの難しい馬術をやってのけた。

この計画が失敗したので、横山は酒盛りを開き、毒入りの酒を勧めた。これを知らずに酒を飲んだ満重主従は悪だくみにかかり、命を落とした。横山は、満重の財宝を奪い取り、手下に言いつけて11人の屍(しかばね)を上野原に捨てさせた。

その夜、藤沢の遊行寺では、大空(たいくう)上人の夢枕に閻魔大王が現われ、「上野原に11人の屍が捨てられていて、満重のみ蘇生させられるので、熊野の湯に入れてもとの体に治すように力を貸せ」というふしぎな夢を見た。夢のお告げにしたがって上人が上野原に行ってみると、11人の屍があった。お告げのとおり10人の家来は息たえていたが、満重だけはかすかに息があつた。上人は、家来達をほうむり、満重を寺に連れ帰った。

上人は、夢のお告げにしたがい満重を熊野に送り温泉で体を治させることにした。上人に満重を車に乗せると胸に「この者は、熊野の湯に送る病人である。一歩でも車を引いてやるものは、千僧供養に勝る功徳を得よう」と書いた札を下げた。藤沢から紀州の熊野まで、大勢の人々が車を引いて送ってくれたおかげ満重は熊野に着き、熊野権現の霊験と温泉の効き目で元の体にもどった。

照手姫は、満重が毒を盛られた後、世をはかなんで密かに横山の屋敷を抜け出したが、追手につかまり川に投げ込まれたが、日頃信心している観音菩薩のご利益で、おぼれることなく金沢六浦の漁師に救われた。しかし、漁師の女房は照手姫が美しいのねたみ、松の木にしばりつけられて松葉でいぶされたりしていじめられ、最後には人買いに売りとばされた。

体が元に戻った満重は、一族の住む三河に行き、力を借りて京都の幕府に訴えた。満重が生死の境からよみがえったのは稀有の仏徳であるとして、常陸の領地を与えられ判官の位をさずけられた。常陸に帰った満重は、兵をひきいて横山大膳を討つと、遊行寺に詣り、上人にお礼するとともに、亡くなった家来達の菩提をとむらった。

照手姫は、美濃の青墓(現岐阜県大垣市)で下女として働いている時、満重に救い出され、二人はようやく夫婦になれた。満重が亡くなると弟の助重が領地を継ぎ、鎌倉に着た折に、遊行寺に参り、満重と家来の墓を建てた。

照手姫も仏門にはいり、遊行寺内に草庵を営んだが、永享元年(1429)長生院を建てた。』

以上が長生院につたわる伝説である。

伝説になる前の小栗氏の史実

平安時代の末頃から常陸国真壁郡小栗邑(むら)に桓武平氏大掾の流れをくむ小栗氏という一族が城を構えていた。小栗城主の満重は、応永23年(1416)に起こった関東管領足利持氏と上杉禅秀との戦いの折り禅秀方に味方し敗北したので足利持氏に多くの領地を削られた。

満重は持氏に恨みをもち、応永25年鎌倉で謀反を図ったが、計画が事前に発覚し小栗城に逃れた。城は鎌倉勢の攻撃を受け落城したが満重は再び領地を割いて死をまぬがれた。

こうしたことから満重の持氏に対する反抗心はますます高まり、応永28年兵を挙げた。この乱は常陸・下野にまたがる大争乱になった。応永30年には、足利持氏が自ら将として結城城に入り、攻め立てたので、小栗城は遂に陥落し、満重は自殺し、その子助重はひそかに一族の領地のある三河国に逃れた。

その後、助重は結城合戦で戦功をあげ領地を復したが、康正元年(1455)再び落城し助重の消息は不明となり、城と領地はそれ以後小栗氏の手にもどることはなかった。

室町時代の歴史上の出来事を書いた「鎌倉大草紙」と言う書物には、小栗氏について

『応永30年の頃、常陸の国の小栗城が、足利持氏に攻め滅ぼされた時、城主満重は三河へ落ち延びた.その子の小次郎は、相模に潜伏していたが権現堂と言うところに泊まった時、盗賊に毒を盛られた。しかし、照姫と言う遊女に救われ、荒馬にのって藤沢の道場へ逃げ上人に助けられ三河へ逃れた。後に小次郎は照姫を尋ねだし種々の宝を授け、盗賊を探し出して退治した。』

と言う筋書きで書かれている。この本が書かれた室町時代の半ば頃には、小栗氏に関する史実としてこのようなことが伝えられていたのであろう。

ここでは史実に盗賊の邸に泊まって毒酒を飲まされそうになり、照姫に救われたこと。遊行上人に助けられたこと等、史実以外のものが加わっている。

これは小栗氏と関係の深い常陸の国の社寺の巫女が、小栗氏の霊を慰めるために英雄譚として作り出した話と言われている。

藤沢で発展した小栗伝説

その後、時宗関係の僧侶や巫女の手で藤沢に持ち込まれ、布教の手段として取り上げられて、発展しはじめた。

僧侶が仏の教えや仏典を説明することを“説教”と呼ぶが、一般庶民への布教のため、室町時代以降には譬え話や因縁話が取り入れられ、芸能化しつつ発展し『説経節』となった。これは説経浄瑠璃とも呼ばれ、近世には語り物芸能として独立し発展した。

時宗系の念仏聖は、念仏とともに小栗判官の物語を語るのを得意とし、各地に物語を広めていった。常陸からの小栗伝説を受け継いだ藤沢の遊行寺は、語り物の情報センター的な役割も持っていたと思われる。

各地に広まった小栗伝説に様々な説話・因縁話などが付け加わり、多様な伝説が生まれたが、小栗伝説の中心をなす鬼鹿毛の生息地、横山大膳の屋敷跡、照手姫の住居跡、など、藤沢の俣野周辺の地域が伝承地に当てられているものが多い。これは、俣野一帯の地を治める地頭で遊行寺の開基「俣野五郎景平」が、遊行寺を開いた呑海上人の兄であること。遊行寺が建立される前の道場が俣野の地にあったこと。等と関連が深いものと思われる。

芸能に取り上げられた小栗伝説―説経節―

中世以来の芸能である「説経節」は、初め説教師と呼ばれる人たちが、道端で民衆に語ったり門付けで語る大道芸・放浪芸であつたが、近世に入ると伴奏に三味線を使い、人形を使ったり舞台の上で演じられるようになった。江戸時代になると大変盛んになり、説経も書き留められて本として刊行されるようになった。

御物絵巻『をくり』や奈良絵本『おくり』等が作られると、芝居の題材として取り上げられるようになり、近松門左衛門の『当流小栗判官』や、これに影響を受けた『小栗判官車街道』等数多くのものが書かれた。

小栗判官の物語は、伝承により異同があるが、一般によく知られているものは、説教節『小栗の判官』で、その概略の内容は、次のようなものである。

『鞍馬の毘沙門天の申し子として生まれた二条大納言兼家の嫡子小栗判官は、人に優れた強者であった。或る日鞍馬からの帰途、横笛を吹きながら菩薩池にさしかかると、池の大蛇が美女に化けて現われた。小栗はその美しさに迷い、これと契って妻とした。

やがて美女は懐胎したが、子の産まれるのを恐れ神泉苑に身を隠そうとして、そこに棲む龍女と闘いになった。その為、七日の間暴風雨が続き不穏な日々が続いた。時の帝は不思議に思い、博士を招いて占ったところ、このことがわかり、小栗は罪によって常陸に流された。

常陸でさびしい日々を送っていた小栗は、旅の商人から、武蔵・相模の郡代横山氏に照手姫と言う日光山の申し子で美貌の娘がいることを聞かされた。小栗は早速文をしたため商人に頼んで照手姫にわたしてもらった。

照手姫からの返事をもらった小栗は、よりすぐった十人の家来とともに、照手のもとに強引に婿入りした。姫の館へ忍び込み同然で入り込んだ小栗に、怒った横山は、三男三郎の企みで小栗を人食い馬「鬼鹿毛」に食わせようとする。しかし、小栗は鬼鹿毛を難なくのりこなしてしまう。この企みに失敗した横山は、家来もろとも小栗を毒殺してしまう。小栗は上の原へ土葬に家来は火葬にされてしまう。

照手姫も同罪として相模川に流されるが、ゆきとせが浦にたどり着き村君太夫に救われる。しかし、心悪い姥の虐待を受け、松葉でいぶされたりしたが、信仰する千手観音の加護で難を逃れた。やがて人買いに売り飛ばされ、美濃国青墓の万屋の主人に買われた照手は、「常陸小萩」の名を与えられて下女づとめのきつい労働をさせられる。

一方、死んだ小栗と家来は閻魔大王の裁判を受け、小栗は閻魔大王自筆の「熊野の湯に入れば元の姿に戻れる」と書いた藤沢の遊行上人宛の手紙を持って娑婆に戻される。小栗の墓から、餓鬼阿弥が現われたのを見つけた上人は、手紙を読んで、これを車に乗せ、“この車を引くものは供養になるべし”と書いた木札を胸につけ引き出した。

やがて車は、沢山の人々に曳かれ美濃の青墓に着いた。小萩は,小栗とは知らず胸の木札を読んで哀れに思い,、五日の暇をとって車を引く。熊野に着いた小栗は49日間熊野の湯につかり、無事もとの体に戻った。

小栗は京に戻り,父から許しをもらい、帝からは常陸-駿河・美濃の国を賜った。早速、美濃にくだり餓鬼阿弥姿の自分の車を引いてくれた小萩を訪ね、厚く礼をのべ素性を明らかにしたことから,小萩は以前の照手姫であることを知り、二人は不思議な再会を喜び、姫を都に伴った。やがて小栗判官は、横山に復讐し亡ぼした。死後、小栗は美濃墨俣の正八幡に、照手姫も結びの神として祀られた。』

説教浄瑠璃として語られるだけでなく、歌舞伎・人形芝居として盛んであった「小栗もの」も明治維新以降衰退の一歩をたどり人々から忘れ去られた様だったが、現代に至って見直され、1991年初演のスーパー歌舞伎『オグリ』で一躍有名になった。藤沢でも遊行フォーラムの中で毎年遊行かぶき「小栗判官と照手姫―愛の奇跡」が遊行寺で上演されるようになった。今後新しい形の小栗伝説が生まれてくるであろう。

県下各地に広がる小栗伝説

説経節や演劇として小栗伝説が広まるにつれ、関係各地を主として話が作られ、その土地に定着した伝説が生まれた。神奈川県下にも次の各地に小栗判官・照手姫の伝説が残されている。

1.相模湖町「美女谷」

ここには美女谷温泉があり,照手姫が生まれた所で、照手姫が顔を洗った沢や現在でも姫の子孫と伝える家があり、美女谷の地名も照手姫にちなむと言う。

「相模風土記稿」には、『旧説に、往昔是處より美女出ければ、遂に地名となると云ふ。今其事実を探るに詳なることを知らず。』とある。美女=照手姫となったらしい。

2.城山町

川尻八幡宮の西、若葉台住宅地の中に小栗公園があり、ここは小栗判官屋敷跡と伝えられている。

3.相模原市「上溝」

JR相模線に沿って上溝付近をながれる「姥川」の源流付近には、照手姫が産湯をつかったと言われる湧き水があり、「照手姫遺跡の碑」が建てられている。また、横山台二丁目には、照手姫を祭神とする榎神社もある。

ここに伝わる伝説は、説経節で語られるものと少し異なり,小栗判官は父横山将監の敵方であり、美男で評判の小栗と恋仲になった照手姫は、父を捨てて小栗の元にはしり、やがて横山一族は小栗判官のために亡ぼされると言う、姫の悲劇物語として伝えられている。

この付近は、相模原段丘の段丘崖が長く続き、昔から相模の横山と呼ばれ、現在も横山丘陵の名で親しまれている。地形だけでなくここには平安末期から八王子に根拠を持つ「横山党」の一族が進出して来ていたので、横山一族との関係で小栗伝説が形を変えて残ったものと思われる。

4.横浜市金沢区「六浦」

小栗物語の中で、相模川に流された照手姫がたどり着いた「ゆきとせが浦」は六浦であったと言う伝承が残り、この付近には、照手姫に関した伝承が多く遺されている。

六浦の專光寺には、照手姫の守り本尊がまつられ、瀬戸橋付近には照手姫が松葉でいぶされた松の木の跡、姫の跡を追った照手の侍従が身を投げた「侍従川」などの史跡がある。これらは貞享2年(1685)に編集された「新編鎌倉誌」にも見えている。

5.横浜市戸塚区「俣野町」

原宿の交差点近く聖母の園裏山に「鬼鹿毛山」と呼ばれる山があり、横山大膳が鬼鹿毛を飼っていた所と言われ、この馬に関係のある伝承が付近に多く残されている。

また、近くには大膳の屋敷跡といわれる「殿久保」の地名もある。

6.茅ヶ崎市「室田」

相模風土記稿室田村の項に「二本松 里人小栗判官馬繋松と呼ぶ、二樹各高十丈許(ばかり)、頗(すこぶる)著名なるによりて自然此辺の小名に呼り、」とある。ここは田村通り大山道沿いなので、二本の松の銘木に謂われをつけるために小栗判官の伝説にあやかったものであろう。

*藤沢でも遊行寺に近いため、地名の由来の説明に、小栗が乗る車を作ったのが「車田」、台を作ったのが「台町」車を引きだしたのが「引地」と言う東海道沿いの地名伝承が有るのも面白い。