藤沢を知る「義経の首塚」

「判官(はんがん)びいき」とは、第三者が弱者に同情することを言うが、語源は判官の位であった源義経を薄命の英雄として同情したことから起こった言葉である。

室町時代以降、義経は文学・演劇などに多く取り上げられ、人々の判官びいきの心情を高めた。とくに義経が奥州にいたこともあって中世以降の奥州人は、義経が好きであった。

義経の生涯を書いた『義経記(ぎけいき)』は、室町時代の初期に京都で書かれたものらしいが、奥州で琵琶法師(びわほうし)により語り伝えられるうちに人々の要求により少しずつ変えられ、史実・伝説が混沌として、史書としては信のおけないものになったと言われている。

義経に関係する伝説・伝承・口碑は、多くのものが各地に存在している。その中の一つである義経の首にかかわる伝説が藤沢に残されている。生前のものは数多く見られるが、死後のものはほとんどなく、藤沢に残されたものは貴重な伝説と思われる。

小田急線藤沢本町の駅に近い白旗交差点のそばの公園の片隅に、義経の首洗井戸と首塚の碑がひっそりと残されている。鎌倉時代の歴史が書かれた『吾妻鑑(あずまかがみ)』にも『義経記』にもこのことは書かれていないので、伝義経の首洗井戸の標識が立てられている。

史書に見える義経の最後

文治5(1189)年閏(うるう)4月30日、義経は藤原泰衡(やすひら)に攻められて衣川の館で自害した。まだ31歳の若さであった。

『吾妻鑑』四月三十日の項には

今日 陸奥国において、泰衡、源豫州(伊予守義経のこと)を襲ふ。……家人等相防ぐといへども、ことごとくもつて敗績す。豫州持仏堂に入り、まず妻子を害し、次に自殺すと云々。

とあり、同じく六月十三日の項には

泰衡が使者新田冠者高平、豫州の首を腰越の浦に持参し、事の由を言上す。よって実検を加へんがために、和田太郎義盛・梶原平三景時等をかの所に遣わす。……
件の首は、黒漆(くろうるし)の櫃(ひつ)に納(い)れ、美酒に浸し、高平が僕従二人これを荷担す。……

と書かれている。

頼朝は、和田・梶原からの報告を聞いたのみで、義経の首は見ていないと言われる。それから義経の首がどのように扱われたのかは史書には見えない。腰越の浜に捨てられたという言い伝えもあるが、頼朝にどんなに恨まれていたとしても、また当時の慣例としてさらし首にされたとしても、最後は埋葬されたはずであり、捨てることはあり得ない。その後の首の始末については、『鎌倉大日記』の記載の中に「閏四月三十日 義経於衣河館自害、五月十三日 首上鎌倉被埋藤沢」と見えているのみである。

ここに書かれた五月十三日は六月の誤りかもしれない。

義経首洗井戸と首塚の伝説

藤沢に伝わる首洗井戸の伝説は、次の様な話である。

腰越の浜に捨てられた義経の首は、しばらくして境川を遡り、金色の亀の背中に乗って、白旗川に流れ着いたと伝えられる。

江戸時代の文政13(1813)年に、小川泰堂(泰堂については125号参照)によって書かれた、藤沢の郷土史『我がすむ里』には、

その頃、藤沢の川辺に、金色なる亀、泥に染みたる首を甲に負い出たり。里人驚きて怪しみたるほどに、側(かたわら)にありける童児たちまち狂気のごとく肱(ひじ)をはり、『我は、源義経なり、薄命にして讒者(ざんしゃ)〔梶原景時のこと〕の毒舌にかかり、身は奥州高舘の露と消えるのみならず、首さえ捨てられ怨魂やるかたなし、汝等(なんじら)、よきに弔(とむら)いてくれよ』と言い終わりて倒れぬ。諸人恐れて、これを塚となせり。

と書かれている。この塚に対して村人は敬い恐れ、通る時は必ず礼拝したので、礼拝塚(らいはいづか)と呼ばれていた。また、首洗井戸については、白旗横町のうちにあり、文治五年の夏、彼の義経公の御首をあらい清めし水という

と書かれている。

以上が、ここに伝わる義経の首伝説である。

白旗神社の祭神は、寒川比古命・源義経であり、はじめは相模国一の宮寒川神社を勧請したものであるが、文治五年義経の首がこの地に葬られたことから、宝治3(1249)年義経を合祀し、白旗神社となったものと伝えられる。

白旗神社と首塚

義経伝説は各地に多く残されているが、首塚の所在は藤沢のみである。否定する材料がないので義経の首が藤沢に埋められたのは事実かもしれない。一説では、文治の頃、京都から逃れた義経を匿(かくま)った罪で、頼朝の命により幕府に呼び出され、鎌倉に滞在していた牛若時代の義経の師、聖弘上人が首を貰い受け藤沢に埋葬したという言い伝えもある。

首塚が白旗横町にあることは、白旗神社の存在に大いに関係があると思われるが、義経との関係については、何の記録ものこされていない。ただ、神社前を通る道は、昔からの街道(後の八王子街道・滝山街道)で、平安時代末期には、東海道と東山道の連絡路であった可能性もある。

奥州から運ばれた義経の首は、この道を通り腰越に運ばれたことも考えられる。首実検を終えた首は頼朝に遠慮があり、当時の鎌倉の玄関口腰越近辺には葬れなかったと思える。

当時このコース沿いに建立されていた社寺は、創建の記録から見ると、片瀬の諏訪神社・本蓮寺があり白旗神社がある。鎌倉という都市の区域外で、片瀬をのぞくと、鎌倉に最も近い社寺である白旗神社が選ばれたものであろう。

後世に様々な推定によって書かれた書物を除けば、当時の信頼できる史書に首塚の場所が明確に書かれていないため、白旗に首塚のある説明として、捨てられた首が、川を遡り亀の背をかりて、ここに浮かび上がった伝説が、何時の頃かできあがってきたものであろう。
白旗神社の建てられている丘は、形が亀ににているということで、昔は、亀の尾山とか亀形山とか呼ばれていたといわれる。義経の首が、金色の亀の背に乗って現れたという伝説の亀は、神社の立つ地形から思いついたものであり、金色は義経のいた奥州の金からの発想ではないか。

何しろ義経の首は、閏4月の末(現在の6月半ば)から暑さの中を43日間かけて鎌倉に運ばれている。酒漬とはいえ、誰の首か分からない状態になっていたであろう。そのため偽首(にせくび)伝説が生まれ、悲運な生涯を閉じた英雄への哀惜(あいせき)の念が、義経北行伝説を生んだ。

藤沢にはもう一つ義経に関する伝承が伝わっている。御所見の用田辻近くの個人宅の庭に御曹司(おんぞうし)と書かれた碑が残されている。

頼朝挙兵の報を聞いた義経は、三百騎を率いて、平泉をでる。頼朝の軍勢に追いつくために「馬の腹筋を馳せ切り、脛(すね)の砕くるを知らず」という疾駆(しっく)ぶりで、武者達は次々脱落して半数ほどになった。

『義経記』によれば、このとき府中から平塚に抜けたことが記されている。用田を通り寒川に向かう街道(現中原街道)を義経一行が通ったのを記念して建てたものらしい。

(初出『ふじさわ教育』第126号)