影取池と大鋸
藤沢を知る「影取池と大鋸」
藤沢から戸塚方面に向かうバスが遊行寺の坂を登りきり横浜市との境に近付くと、「鉄砲宿」というバス停が、その先の戸塚区内には「影取」というバス停がある。ここにはその地名にまつわる次の様な影取池の伝説が伝えられている。
影取池の伝説
遊行寺の東側、滝川のほとりの大鋸(だいぎり)に森というお大尽(だいじん)がいた。森家には大きな池があり、「おはん」と名付けた蛇を飼っていた。おはんはだんだん大きく育ち、一日に酒5升、米1斗をたいらげるほどの大蛇になった。
小田原の北条氏に仕え、大鋸引(だいぎりびき)の棟梁(とうりょう)として、また藤沢の町の触口役(しょくこうやく)〔命令伝達係〕として大きな勢力を誇っていた森家にすれば、蛇の餌代に事欠くようなことはなかった。
しかし、やがて大飢饉が相模の国を襲い、さすがの森家でも「おはん」を飼う余裕がなくなってきた。これを知ったおはんは、家の人の苦労を察し、ある夜池を抜け出すとそばを流れる滝川を遡り戸塚の方へ向かい、上流にあった池に住みついた。「おはん」はこうして池に住みついたものの自分で食べ物を探さなければならなくなった。周辺の食べられるものは食べ尽くし、じっと池の底にうずくまる日々が続いた。
そんなある日、池のそばを通る人の影が水面に写った。ふとその人影を飲んだ「おはん」は不思議に満腹感を覚えた。その後、おはんは池に写った人影を飲んで暮らす様になった。やがて、戸塚でも藤沢でもこの池のそばを通ると大蛇に影を取られ、命を失うという噂が広がり、人々は、大蛇はもと森家に飼われていた「おはん」ではないか?と噂し合った。心配した森家では、退治のために剣術や弓の名人を差し向けたが影を取られこそすれ、退治することはできなかった。
ある時鉄砲打ちの名人が宿に泊まった。森家や村人の依頼を受けた鉄砲打ちは慎重に考え、池から離れた場所に小屋を作ってもらい様子を窺ったが、相手の姿が見えず困っていた。そうしたとき、村人から、かつてこの蛇が森家では「おはん」と呼ばれていたことを聞きおよび、早速池の近くで鉄砲を構え、大声でおはんの名を呼んだ。久し振りに名前を呼ばれた「おはん」は、森家の人が迎えに来たのかと思い嬉しくなって水面に顔を持ち上げた。
その瞬間をのがさず鉄砲打ちが放った弾丸は、おはんの頭を打ち抜き池は血で染まった。そののち、付近の人々は、この池を『影取池』、鉄砲打の小屋の所を『鉄砲宿』と呼ぶようになった。
影取池の跡は、戸塚区の国道1号線と藤沢バイパスの分岐点の東南方約100mにあるかつての影取村の名主羽太(はぶと)家の東側の林の中に痕跡を止めている。
影取池については『新編相模風土記稿』山谷新田(さんやしんでん)の小名(こな)影取の項に「此所に纔(わずか)の清水流る。土俗伝て、昔は池あり、池中に怪魚すみ夕陽に旅客の影池中に投ずるを喰ひしより、影取の名残れりと云ふ」と、記録が残されている。
羽太家には、慶安3(1650)年に記された影取池に関する文書が昔は残されていたと言われ、元文5(1740)年の東海道駅路図には、蛇の池、影取池」と記されている。また、戸塚区誌によれば、昔ここには、谷全体が水田で中央に20平方メートル位の池が存在していたことが記されている。
森家と「大鋸」地名の起こり
伝説に見られる様に、森家は藤沢きっての旧家である。森家の先祖は、室町時代の中期頃から藤沢の大鋸に住み、16世紀小田原北条氏(鎌倉の北条氏と区別するため後北条氏と呼ばれる)の時代から活躍する。
当時の資料『北条氏所領役帳』によれば、森家は「職人衆」のひとりとして「藤沢大鋸引(おがびき)」と呼ばれ、「おがびき」とは、材木から板をつくる職人で、森家はその棟梁の位置にあった。
後北条氏直属の職人衆として、森家の大鋸引としての技術は、戦国時代城造りや修理に重要に役割を果たし、森家に伝わる古文書(こもんじょ)によれば、関東各地の築城や修理に大鋸を担いではるばる藤沢から仕事に出掛けている。
そして、歴代の玉縄城主が多摩川河口を本拠にした水軍の総元締の地位にあった関係で、森家では、築城のみではなく造船技術の面でも活躍をみせている。
森家を棟梁とする大鋸引の集団の居住地は、ちょうど遊行寺の門前にあたり、付近には約300軒近い家々が軒を並べていたと言われている。
ここには宿場が形成され、問屋や伝馬(てんま)が置かれ宿の問屋役や伝馬役は旅人や商人を宿泊させ、また、領主の御用のために馬を仕立てる役を勤めた。
当時遊行寺は、永正10(1513)年北条早雲と三浦道寸との戦乱により焼失し、無住無仏の廃墟と化していたが、時宗本山として、また藤沢上人の住持としての威厳は失われず、参集する老若男女や僧侶も多かった。
〔遊行寺の再建は、約百年後の慶長12(1607)年である〕
後北条氏は、森家に藤沢宿の問屋役・伝馬役を命じ、また触口役として遊行上人のもとの僧侶の管理をも命じた。これは町政の権を一手ににぎることを意味し、一方森家は、塩干魚・酒の販売という商業にも力を延ばし、藤沢の宿を門前町から商業流通の宿場・市場へと発展させる原動力となった。
江戸時代に入っても町名主を勤めるなど森家は活躍したが、大鋸引の住んでいた町は現在も「大鋸」というめずらしい地名として残されている。
*大鋸と書いて「だいぎり」と読ませる地名は、私のわずかな知見では、ほかに見当たらない。東京の千代田区京橋一丁目にあった大鋸町(浮世絵師安藤広重の住居のあった所)も、水戸市元吉田町にあった大鋸町も静岡市にある大鋸町もすべて「おがまち」と読ませている。共にこの町名は失われ現存していない。
伝説の発生についての私見
昔から蛇は神聖視され、ご神体としても人々の信仰を集めていた。
森家のそばには呑海(どんかい)上人の観請した諏訪神社が、羽太家の隣にも諏訪神社が鎮座している。諏訪の神が蛇体であることは、『神道集』『諏訪縁起』にも見えていて、神が蛇体であるので、出雲の神集(かみつど)いに行かないという言い伝えがある。
名主であり、諏訪神社の氏子の総代であったろう両家、この様な古い信仰も伝説の発生になんらかの関連があるのかもしれない。
地形・交通の面から考えれば、両家ともに滝川の流れに沿い、重要な街道東海道にも面している。共に昔からの名家であり名主役を永年勤めていた。これらもこの伝説の起こりに深いつながりがあるものと思われる。
なお、県内では、川崎市宮前区の有馬にも、影を取る大蛇の住んでいた影取谷戸の地名が残され、ここに残る伝説も街道と土地の名主の娘が関係している。またそのすぐそばの杉山神社も蛇がご神体である。
名望と信仰と地形、これらがからみあったものがこの伝説を生んだのではないか?この様な視点でこれからも「おはんさん」の伝説を考えていきたい。
初出『ふじさわ教育』第121号